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坊門姫 (一条能保室) : ウィキペディア日本語版 | 坊門姫 (一条能保室)[ぼうもんひめ]
坊門姫(ぼうもんひめ、久寿元年(1154年)または久安元年(1145年) - 建久元年4月20日(1190年5月25日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の女性。『平治物語』で坊門の姫と呼ばれる。本名は不明。 == 略歴 == 父は源義朝、母は正室の由良御前で、鎌倉幕府を開いた源頼朝の同母妹(または姉)である。一条能保の妻。子に一条高能〔『吾妻鏡』より〕〔『公卿補任』〕、九条良経室(1167年生〔『明月記』正治2年(1200年)7月13日条良経室死没記事の没年齢より逆算〕)、西園寺公経室全子〔『愚管抄』巻六より〕、後鳥羽天皇乳母大納言三位保子。 父義朝は平治の乱で討たれ、同母兄弟の頼朝・希義が流罪となったのち、坊門姫は後藤実基に預けられ、都で密かに匿われて育てられた(『平治物語』)。のちに貴族である一条能保の妻となり、仁安2年(1167年)には九条良経室を、安元2年(1176年)に嫡男高能を生んだ。この縁戚関係が、挙兵し東国の主になった兄弟頼朝の重要な都との接点となり、能保は都における鎌倉政権の出先機関として重用された。文治2年(1186年)2月、頼朝は坊門姫を後鳥羽天皇の乳母に推挙している(実際には娘の保子が出仕)。また、頼朝は坊門姫自身にもいくつかの地頭職を与えている。 建久元年(1190年)4月20日、難産によって死去。享年46(もしくは36)。頼朝が深く悲しんだ事が『吾妻鏡』に見える。また、その追善法要が鎌倉の勝長寿院にて行われたことも『吾妻鏡』に記載されている。
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